2015年11月24日
私の恩人
29歳の頃、元夫のDVで裁判を行い、離婚をした私ですが、
当時、長女11才 次女10才 長男6才。
幼い子供達を育てていた私は、生きるために・育てるために
毎日が必死で大変でした。
1日2時間~3時間しか眠らず昼夜働いていました。
(母子手当はもらったことがありません。)
毎日毎日数時間殴られてましたから、子供達も目撃者であり、
三人とも、事細かく当時の状況を今でも鮮明に覚えていると言っています。
ある日の夜、私は殴られた後、意識も定まらないまま中部病院へ行きました。
そこで急遽、手術を受けたのですが、外科の患者さまが満員しているということで
産婦人科病棟で入院しました。
その時、手術室のナースは高校の頃の先輩でした。
手術から3日目、私は意識を取り戻したそうです。
先輩は、元夫の目の前で私にこう言いました。
「手術があと5分遅れていたら死んでいたよ!
早く別れなさい!命がないと子供も育てられないよ!」と。
力強く私に言葉をかけてくれた先輩のおかげでやっと目が覚めました。
「そうだ・・・このままだと子供たちに何もやってあげれない。
死んだら何にもできない。子供のために離婚しない!というのは
子供のためにはなっていないんだ!」と、この瞬間、静かに離婚を決意しました。
そして、この病室で卵管癒着の手術を受けていた方と知り合い、(以下Aさん)
入院中、お互い色々な話をしました。
彼女は、子供を授かる為の手術でした。
数年後、出勤前に珍しく長女がだだをこね始め
「あのスーパーのパン屋に行きたい!行きたい!」とワガママを言い出した。
も~!時間もないのに!!って思ったけれど、ワガママ言うのも珍しかったので連れて行きました。
そしたら、そこにいたのは3年前に病室で出会ったAさん!
2人の子供を授かっていました。
「久しぶり~!」と何気ない会話から始まって思い切って相談してみました。
私は離婚して4年目。
三ヶ所の病院で「子宮がん」と診断されたこと。
私は目の前が真っ暗になっていましたし、毎日が必死でした。
その状況をAさんに全部話しました。
Aさんは、「屋比久先生が独立したから行ってごらん」と言われ
その日、仕事を休んで屋比久先生の診察を受けました。
先生は、「3日間入院して徹底的に調べましょう!」と言って下さり、翌日から入院しました。
その時、昼夜関係なく見た夢は、火葬場の煙突から上がる煙の上で、下を見つめる私。
地上では、煙を見つめる私の三人の子供達と私の母。一生分泣いたと思う。
三日間、私はベッドの上で祈りました。
「60歳までは命をください。子供のためにも、私を探してきてくれるお客様のためにも。
私はまだ、何にもしていない!当然、今こんな私が死んでも誰も泣いてくれない。
60歳まで子供をしっかり守り、お客様にも奉仕します!」と必死で祈りました。
三日目に、先生が検査結果を見せながら
「前田さん、コレの見間違いで(誤診)ガンと診断されているから削ろう!」とのことで
処置を受けました。針麻酔だったので意識はありました。
あれから20数年、おかげさまで私は病院とも縁が無いくらい元気で過ごし、
三人の子供達も優しく育ってくれて私的には大満足です。
仕事的には、これまた頑張った!
他者には、満員でお客さんを断るぐらいなら、スタッフを増やして儲けよう!と言われたけれど
利益を求めたら今まで培ったもの全てを失うと思ったし、この技術は簡単に人に教えられるものではない。
娘ですら知らないんですから。
それに、私を探して本土から・海外からと来てくれる方々や、
なんといっても、常連の皆様に失礼ですからね。
さて、年が明けたら待ちに待った還暦を迎えます。
生まれ年の来年は、現状のままで、一人でも多くの卒業生が出ますように!
2017年5月頃には、私自身のゆとりをもちたいと思っていますので来年からは
本格的に人数制限も行っていきたいと思っています。
苦しい事・つらい事は後になって「よかった」と思える事に繋がっていきます。
昔から私を知っている人達は、「苦労ばっかりして」と言いますが、
私自身、苦しいな~!とは思っても苦労したとは全く思っていません。
苦しい事もつらい事も、笑顔の日も、毎日が思い出作りだ!
60歳の誕生日は、屋比久産婦人科の屋比久先生のところへ
お礼に伺おうと思っております。
先生と出会っていなかったら、今の健康な私はいなかったし・・・私自身どうなっていたか。
昔のことですから、先生は忘れていると思うけど、
私にとっては恩人であり、一番感謝している方です。
そして、外科ではなく産科に入院したことでAさんとも出会い、
そして先輩からは、今後の私の人生を大きく変える言葉を頂きました。
あの時、ワガママを言った長女にも感謝してます。
緑の魔法HPはこちら!
当時、長女11才 次女10才 長男6才。
幼い子供達を育てていた私は、生きるために・育てるために
毎日が必死で大変でした。
1日2時間~3時間しか眠らず昼夜働いていました。
(母子手当はもらったことがありません。)
毎日毎日数時間殴られてましたから、子供達も目撃者であり、
三人とも、事細かく当時の状況を今でも鮮明に覚えていると言っています。
ある日の夜、私は殴られた後、意識も定まらないまま中部病院へ行きました。
そこで急遽、手術を受けたのですが、外科の患者さまが満員しているということで
産婦人科病棟で入院しました。
その時、手術室のナースは高校の頃の先輩でした。
手術から3日目、私は意識を取り戻したそうです。
先輩は、元夫の目の前で私にこう言いました。
「手術があと5分遅れていたら死んでいたよ!
早く別れなさい!命がないと子供も育てられないよ!」と。
力強く私に言葉をかけてくれた先輩のおかげでやっと目が覚めました。
「そうだ・・・このままだと子供たちに何もやってあげれない。
死んだら何にもできない。子供のために離婚しない!というのは
子供のためにはなっていないんだ!」と、この瞬間、静かに離婚を決意しました。
そして、この病室で卵管癒着の手術を受けていた方と知り合い、(以下Aさん)
入院中、お互い色々な話をしました。
彼女は、子供を授かる為の手術でした。
数年後、出勤前に珍しく長女がだだをこね始め
「あのスーパーのパン屋に行きたい!行きたい!」とワガママを言い出した。
も~!時間もないのに!!って思ったけれど、ワガママ言うのも珍しかったので連れて行きました。
そしたら、そこにいたのは3年前に病室で出会ったAさん!
2人の子供を授かっていました。
「久しぶり~!」と何気ない会話から始まって思い切って相談してみました。
私は離婚して4年目。
三ヶ所の病院で「子宮がん」と診断されたこと。
私は目の前が真っ暗になっていましたし、毎日が必死でした。
その状況をAさんに全部話しました。
Aさんは、「屋比久先生が独立したから行ってごらん」と言われ
その日、仕事を休んで屋比久先生の診察を受けました。
先生は、「3日間入院して徹底的に調べましょう!」と言って下さり、翌日から入院しました。
その時、昼夜関係なく見た夢は、火葬場の煙突から上がる煙の上で、下を見つめる私。
地上では、煙を見つめる私の三人の子供達と私の母。一生分泣いたと思う。
三日間、私はベッドの上で祈りました。
「60歳までは命をください。子供のためにも、私を探してきてくれるお客様のためにも。
私はまだ、何にもしていない!当然、今こんな私が死んでも誰も泣いてくれない。
60歳まで子供をしっかり守り、お客様にも奉仕します!」と必死で祈りました。
三日目に、先生が検査結果を見せながら
「前田さん、コレの見間違いで(誤診)ガンと診断されているから削ろう!」とのことで
処置を受けました。針麻酔だったので意識はありました。
あれから20数年、おかげさまで私は病院とも縁が無いくらい元気で過ごし、
三人の子供達も優しく育ってくれて私的には大満足です。
仕事的には、これまた頑張った!
他者には、満員でお客さんを断るぐらいなら、スタッフを増やして儲けよう!と言われたけれど
利益を求めたら今まで培ったもの全てを失うと思ったし、この技術は簡単に人に教えられるものではない。
娘ですら知らないんですから。
それに、私を探して本土から・海外からと来てくれる方々や、
なんといっても、常連の皆様に失礼ですからね。
さて、年が明けたら待ちに待った還暦を迎えます。
生まれ年の来年は、現状のままで、一人でも多くの卒業生が出ますように!
2017年5月頃には、私自身のゆとりをもちたいと思っていますので来年からは
本格的に人数制限も行っていきたいと思っています。
苦しい事・つらい事は後になって「よかった」と思える事に繋がっていきます。
昔から私を知っている人達は、「苦労ばっかりして」と言いますが、
私自身、苦しいな~!とは思っても苦労したとは全く思っていません。
苦しい事もつらい事も、笑顔の日も、毎日が思い出作りだ!
60歳の誕生日は、屋比久産婦人科の屋比久先生のところへ
お礼に伺おうと思っております。
先生と出会っていなかったら、今の健康な私はいなかったし・・・私自身どうなっていたか。
昔のことですから、先生は忘れていると思うけど、
私にとっては恩人であり、一番感謝している方です。
そして、外科ではなく産科に入院したことでAさんとも出会い、
そして先輩からは、今後の私の人生を大きく変える言葉を頂きました。
あの時、ワガママを言った長女にも感謝してます。
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